1 私と,妻,義母は,原発事故によって,元々住んでいた浪江町から避難し,事故から3年以上が経った今も,埼玉県内で暮らしています。
私たちは,現在も事故による被害は全く収まっておらず,事故の原因やどこに責任があるのかという事も曖昧なので,避難者の被害の全てについて,きちんと責任を取ってもらいたいと思い,今回,訴訟を起こしました。
2 訳も分からないままの避難
私たちは,事故の翌日である3月12日に,避難指示が出ているとの放送があり,避難先は浪江町の津島地区ということだけを聞かされ,訳も分からず,津島の活性化センターへ逃げました。
これは後で分かった事ですが,当時,既にスピーディが放射性物質が多く拡散する方向を予測していたようですが,津島地区は,まさにその多く拡散すると予測された方向にありました。
その避難所は,今も放射線検知器では常に高い数値が示され,そばを通ると,車の中でもピーピーと警報音がうるさいほどの場所となっています。
もしスピーディの情報が公開されていれば,私たちは津島の避難所に避難するようなことは無く,被曝は防げたはずです。
情報を公開しなかった国や東電は,避難者をコントロールするためであれば多少被爆しても構わないと考えていたとしか思えず,人の命をどう考えているのかと,思い出す度に怒りが沸いてきます。
3 過酷な避難生活
津島の活性化センターでは,救援物資が全然足りておらず,体育館の固い床の上で毛布1枚で過ごさなければなりませんでした。食事は,小さいおにぎりを2人で分けて食べ,トイレは,人数が多すぎて水洗が壊れてしまい,穴を掘って用を足しました。水が足りず,皿なども数が足りないため,洗わずに使い回し,衛生面がとても気になりましたが,避難者は我慢するしかありませんでした。
そのようなひどい環境や,自分達の身に何が起ころうとしているのかを理解できない不安もあり,夜はほとんど眠りにつくことができず,急激に体力が奪われていきました。
私たち家族は,3月15日に,津島の活性化センターから二本松の石井体育館に避難しました。石井体育館でも,固い床の上で毛布1枚で過ごさなければならず,外から風が吹き込んできて,部屋の中はとても寒く,一日中毛布にくるまっていましたが,すぐに体調を崩してしまいました。義母は,事故当時,87歳であり,腎盂炎の持病が
あって,足が不自由なため,避難所ではとてもつらそうでしたが,私たちは義母を楽にしてあげることはできませんでした。
義母は,一定時間毎に自己導尿をしなければいけないのですが,避難所では全くできていなかったので,あの状況がもう少し続けば,義母はかなり危険な状況になっていたと思います。
私たちは,避難所で見たテレビのニュースから,原発が危険な状況であることを知り,すぐにでも原発から遠い場所に逃げたいと思い,埼玉に住んでいる弟に何度も電話をかけてやっと連絡が取れて,さいたまスーパーアリーナの避難所を教えてもらいました。
さいたまスーパーアリーナへ避難する際には,県外には出られない,渋滞で動けない,道が走れる状態ではない,などの噂が飛び交い,一体,どこに逃げればいいのか誰も分からない中で,決断をしなければなりませんでした。さいたまスーパーアリーナには,既に,多くの避難者が避難していて,私たちは,通路に毛布を敷いて,段ボールで仕切って生活しました。
義母は腎盂炎を患っているため,人工透析が可能な障害者センターに避難をしましたが,そこでも体育館のような場所で,大勢で生活する状態でした。
事故から3か月が経過しても,帰れる見通しは立たなかったため,長期間の避難先を考えなくてはならないようになりました。
私は,家族の健康や,命の危険から守るには,福島で生活していた様にはいかないまでも,誰にも遠慮する必要もなくストレスもかからない生活をしないといけないと思い,何とかお金を工面して,現在の自宅を購入しました。
国は,避難者が生活する場所として,仮設住宅を作りました。しかし,避難者は,それまで自宅で何不自由なく生活していたのに,突然転々と避難させられ,心身共に疲れ果てている状態にも関わらず,生活環境がまるで違い,狭くてプライバシーも保たれない様な所に入れてしまうというのは,多少の年寄りや体の弱い人は死んでしまっても仕方ないだろうとの考えだったのではないかと考えてしまいます。
東電や国は,原発事故によって,私の住んでいた家や生活を滅茶苦茶にしたのですから,避難者の生活を事故以前の状態に戻す責任があるのは,当然ではないでしょうか。
4 奪われた何気ない日常
私たち家族は,長年,事故前に住んでいた浪江町で暮らしてきました。
浪江町の自宅の近くには,私たち家族が長年行き慣れた場所がたくさんあり,全ての場所に,たくさんの思い出があります。
自宅近くにある丈六公園は,自然いっぱいの公園で,高低差のある1時間くらいの散歩コースがあったため,散歩するには丁度いい公園でした。
自宅の庭では,野菜や庭木を育て,庭いじりをすることが習慣でしたが,現在の自宅では,広い庭はないので,そんな楽しみはありません。
浪江町の自宅から海岸まではすぐの距離でしたので,私たちは,よく海岸線を散歩しました。埼玉には海がなく,以前のように気軽に海岸線を散歩することはできません。浪江町には,水のきれいな川もたくさんあり,夏にはシジミ採りを楽しみました。
自宅の近くには山もたくさんあり,頻繁に,山菜やきのこを採りに山に入っていました。1月はふきのとう,4月はワラビやタラの芽など,秋は栗やイナゴや
キノコなどを採りました。
それ以外の季節にも,山菜の取れそうな場所を探索したりなどするために,大体,週に2回くらいの頻度で山歩きに行っていました。
仕事を引退して,毎日ゆったりと過ごしていた私たちにとって,山歩きは,まさに生きがいでした。
浪江町では,いつでも行きたいときにすぐに山に行くことができましたが,埼玉では近くに山がないので,費用と時間をかけなければ,山に行くこともできません。今は,生きがいだった山歩きができなくなってしまいました。
義母は,避難前は,ほぼ毎日,近所に住む友人を自宅に呼んで,お茶を飲みながら世間話をすることを何よりの楽しみにしていました。
しかし,原発事故によって,友人らとも離ればなれになったため,義母は,毎日,孤立した寂しい生活を送っています。
私たちが,義母の笑顔を見ることや笑い声を聞くことも,少なくなりました。
避難後,余り外に出なくなった義母は,身体の衰えが進み,要介護2の認定を受けました。現在は,私と妻で,義母を介護しながら生活しています。
友人らに囲まれて楽しい余生を送るはずであった義母が今のような生活を送っていることを考えると,か
わいそうでなりません。
ストレスを感じることなく,毎日の日常生活を楽しんでいた義母は,なぜ,こんな辛い思いをしないといけないのでしょうか。
私たちは,あの何気ない日常を取り戻したいだけなのです。
今回の原発事故によって,私たちは,何気ない日常を一瞬にして滅茶苦茶にされました。もう,どうやっても元通りにはなりません。国や東電は,どう責任を取ってくれるのでしょうか。
5 私たちの気持ち
私たち避難者は,避難をしたくてしたのではありません。動きたくもないのに,無理矢理,移動させられたのです。
勝手に私たちの生活を奪っておいて,きちんと責任を取ろうとしない国と東電は,一体,どういうつもりなのでしょうか。
私たち避難者は,原発事故により,元々住んでいた場所での生活の全てが破壊され,自分の家に住む自由や好きな環境で生活する自由を奪われ,現在も,避難
先で不自由な生活を送っています。
避難前は出来ていた趣味や生きがいも,現在は全く出来なくなっています。
この状況は,身体を縛られ,自由がきかない状態と同じです。
そうならば,せめて,その拘束に見合った責任を取ってもらうのは当然です。
また,帰れるか帰れないかは,国が勝手に決めるものではなく,避難者自身が決めることではないでしょうか。
将来的な健康被害は不明ですし,山林などの除染も全く手つかずの状態であり,放射性物質が風などで飛んでくることも十分あり得ると思います。
自分が住んでいる家から何キロも離れていない場所,例えば,ここからなら,浦和駅あたりに除染されていない山林があったとしたら,この裁判所のあたり
に住みたいと思うでしょうか。
そんな状況では,元々住んでいた人が住めないと思ったら,そこは住めない場所になったと考えるべきではないでしょうか。
そんな状態で帰ったとしても,事故前と同じ生活ができるはずがありません。それでも「帰れる」というのなら,まずは東電の本社を福島に持っていって,実
際にそこで生活をしてみて欲しいぐらいです。
住む場所については,事故を引き起こした東電や国が,避難者全員の住宅を用意すべきだと思います。それが出来ないのであれば,事故前の自宅と全く同じ
ものを調達することはできないので,せめて,避難者が,避難先で新たに住宅を購入できるようにすべきではないでしょうか。
国や東電は,今回の原発事故で,本当に大変な事をしてしまったという事を,もう一度よく考えてほしいと思います。
国も東電も,避難者の大変な被害について,もう一度よく考えて,きちんと責任を認めてほしいです。そして,一旦事故が起きたら,こんなにひどい事になっ
てしまうのだと,真剣に反省するべきです。
私は,現在も避難生活を強制されて,それに対して国や東電が十分に責任を取っていないことが,悔しくて仕方ありません。
私たち家族や原告以外にも,原発事故によって避難させられた避難者は,たくさんいます。
裁判官の皆さんにおかれましては,避難者の被害の実態をご理解頂き,是非,正しい結論を下して頂くようお願いします。
以上